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文化に対する一考察
2006 / 11 / 27 ( Mon )
株式会社エイエンの掲示板から転載です。
文化に対する考え方ですね。

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昨今において文化ほど人口に膾炙する語もない。
とくに先進諸国において、高度産業社会がもたらす財と富の豊かさは、
真の豊かさとは何の関係もないのではないかと、
つまりそれは夢あるいは神話ではないのかと、
問い直してみる必要性を感じつつ、そのオルターナティヴとして、文化は盛んに語られている。
快を求め、苦しみをさける方向へと突き進む現代文明。
その流れのなかに、我々はどうしようもなく飲み込まれ、快と引き替えに生きる意味を見失い、死につつ生きる化石の生を送るしかなくなるのではないだろうか。
いずれにせよ、
このような近代的な文化価値が果たして人間の幸福にいかなる貢献をするかが問題になってくる。
なぜなら、文化とは、結局は、
文化の主体であり、その対象でもある我々が追求しつつ享受するその何かであって、
最終的にはそれが我々にいかなる幸福をもたらすかに帰結するからである。

ところで、
「文化」ほど我々を悩ます概念はない。
その概念自体がきわめてアンビバレンツに富んでいて、
広義と狭義のそれ、またその形式あるいはその内容についてのもの、
さらにそれぞれのディシプリンや当該社会のコンテクストによるものなど、
各々の研究者のまなざしほどの定義が存在し、すべてを列挙する暇はない。

たとえば、最も包括的な概念としてTony Bennettは、
「文化」とは「思考と感情の共有化された組み合わせのことである。それはパターン化された規則性を示しながら、ある特定の時代、階級、集団の『生きられた文化』によって『生活の全体的なあり方』を形成するとともに、それによって形成されるものである」(Bennett and Bernard 1981:26)と定義しているが、
高いレヴェルでの抽象度のゆえに、分析的概念としての性能は疑わしい。
つまり人間の営み(生活)すべてを指しているとも受け止められ、
またそれが意味のシステムとしての再帰性(社会(科)学の分析対象そのもの)まで射程に入れているが、
そうであるがゆえにむしろ「文化」という概念を持ち出す意義は薄れてしまいかねない。

他にもGlenn JordanとChris Weedon (1995)は既存の「文化」概念を四つに分類しつつ整理している。
まずは、教養という意味に近いものとして「知的、精神的、美的発展の一般的過程」としての「文化」であるが、この教養主義的「文化」概念は「文化産業」や「余暇社会」に関する議論がもっとも盛んであった1940-50年代のアメリカにおいてMax HorkheimerやAdorno、Marcuseらに共通している。
しかしながらAdornoらが「文化の自立性・無用性・遊戯性」に対して示す理解(Adorno 1975, 2001; Cook 1996; Steinert 1998=2003)と、「文化産業」を楽しむ大衆の喜びとは甚だ距離を感じざるを得ない。
文化貴族主義から「文化産業」を眺めると当然のようにその浅薄さだけが浮き彫りになるであろう。

次に文化人類学的定義として、
「人々、時代、集団の固有の生活様式」としての「文化」概念であるが、
比較的研究としての役割を果たしうるものの、世界システムあるいはグローバリゼーション等の昨今の状況からはその限界を露出せざるを得ない。

さらに3番目に、大衆文化やマスメディア等、資本主義的大量生産された文化形式までも外延とする、「知的、そしてとりわけ芸術的活動の成果と実践」としての「文化」概念がある。
Raymond WilliamsやStuart Hallに端を発するカルチュラル・スタディーズやJohn RuskinとWilliam Morris流れの文化経済学で用いられる概念であるが、
両者ともイギリスを舞台に展開されながらも前者は文化の論理と後者は経済の論理でそれぞれの分析対象を眺めるため水と油の関係であると言わざるを得ない。

最後に先のBennettの概念のように、社会(科)学ひいては文化社会学そのものの分析対象を包括するものであり、つまり「社会秩序がそれを通じて流通され、再生産され、経験され、開発されるような、意味システム」という定義である。
これは、Max Weberの理解社会学にはじまり、またそれが行為者の行為における主観的意味を観察者=理論家が客観的に捉えるのに失敗していると批判するAlfred Schützを経由し、さらにAnthony Giddensの二重の解釈学やJürgen Habermasの生活世界Lebensweltや公共性Öffentlichkeit; publicityとも関わりをもつ。しかしながら前述したように「文化」そのものに対しては疎かにならざるを得ない。

そもそも定義とは通俗的に、
一般に未知の事項が有している内包を既知の事項の組み合わせを用いて表現することである。
すると、
「文化」の定義も、我々が「文化」を知らないため、
それが有する内包を既知の事項で説明することになるのだが、
実際に、
「文化」を定義するためには、我々は予め「文化」を知っていなければならない。
だが、
「文化」を知っているということはその定義を知っていることになる。
つまり各々の論者は自ずと知っている「文化」の定義から「文化」を眺めるが、
その現象は彼らそれぞれにとってあたかも自明に見える(知っている)存在として顕現することになり、
その説明をもトートロジカルであるかアドホックになりうる。
つまりそれぞれの定義は各々の研究者が注目する(つまり知っている)現象についての言説であるが、
それは各々の研究者が当該社会に内属していてその社会的価値(広く共有されている価値)を内面化していることが容易に想定できる。
もちろん前述の諸定義もそれぞれの当該社会の状況を反映していることは否めないが、
以上のような諸特徴から常に修正を加える必要があると思われる。

このように考えると、
文化とは、当該社会におけるコンテキチュアル関係性に注目しつつ、そこから改めて汲み上げた暫定的な意味合いの「文化」概念を手がかりにして、そして再び当該社会のコンテクストに振り戻してみることでその概念に対する手がかりがつかめるようになる。
いずれにせよ文化とは、
当該社会における価値判断を含んでいるために、
当該社会内では、支配層の文化が正当性を帯びてしまうのである。
そうなると下層文化は、
また自分より衰えている文化を探しその文化を罵る。
文化は差異ではなくただの違いであるにもかかわらず。
例えば、クーデターや革命が成功したらその勢力は正統文化の持ち主になるが、
失敗したら歴史上の反逆者として残ってしまう。
そのために歴史は常に勝利者の歴史であり、それこそが正統文化として語られるのである。
文化を先ず疑うこと。
その文化を飛び出してみること。
そうすることで文化への理解は深まるのではなかろうか。
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